『マイマイ新子と千年の魔法』

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 18日に『マイマイ新子と千年の魔法』を観ました。最初は興味すらなかったのですが、たまごまごさんの熱気に当てられて、そこまで絶賛するなら観に行ってみるかと武蔵村山ワーナーマイカルまで足を運んだのでした。モーニングショーだからか10人くらいしかいなかった。しかし客数と映画の出来は関係なく、映画はとてもよかったです。感動映画というより叙情的な映画だと思いました。


 ただ変な映画だなぁとも思いました。それは、タツヨシの父の自殺から仇討ちと称してバーに行く場面、新子に周防の国のことなどを教えてくれた祖父の死、貴伊子との別れなど物語のピークになりそうなところがサラッと描かれているからですが(祖父の死は仏壇に手を合わせているカットしかない)、この作品が描こうとしていたものはそこではないのだな、と感じました。

 ではどこを描こうとしていたのか。それは新子と貴伊子の交流、学校の仲間たちとのダム作り、金魚の「ひづる」との出会いと別れ、それに上に書いた場面と千年前の清原諾子の生活をすべて同じ重さを持たせることで「特権的な時間」を描きたかったのではないか、と思います。

 「特権的な時間」というと、「子どものころは僕らは世界を別な目で見ていた。でもそれは大人になるとともに失われてしまった。なんて悲しいことなんだろう!」のことかと思われるかもしれませんが、私はその考えに首を傾げてしまうのです。それは私が子供時代をろくに覚えていないから、というのもあるのですが、単純にそういう考えはファンタジーなだけではないか、と思わないでもないです。ただ、「誰かとこんな風に過ごせる時間はもうないだろう」という時間は確実にあると思います。私の場合は大学時代がそうでした。その時間は2度と手に入らず、それは悲しいことですが当たり前のことでもあり、だからこそ切ない。

で、この映画が描いたのはそのような「特権的な時間」ではないかと思います。そうでなかったら映画を観終わって少ししてから、彼女たちがあのままで大人になるように、もし二度と会えなくても友達であると言えるように、なんて思わない。たぶん新子と貴伊子はもう会うこともなく、そして諾子と千古も諾子が周防を離れたらもう会うことはないだろう、と考えると胸が切なくなる。これは私の勝手な思いつきに過ぎないのだけれども。

 そんな事を思ったのは最初のほうに書いた物語のピークとなるところがサラッと描かれているからだと思います。大きいイベントを描くとそこに感情が集中してしまいますが、そうしないことで新子たちがすごした時間そのものに感情を集中できたのではないか。観たときに『よつばと!』と似ていると思ったのですが、西原理恵子『ゆんぼくん』『女の子ものがたり』とも通じるものがあるかもしれないと思っています。

 それにしてもミーハー気分で観に行ったのに、ここまでやられるとは思わなかった。登場人物たちのこれからに思いをはせるなんて、想像できなかった。印象に残ったのは新子と貴伊子が裸足で飛び跳ねているシーンなのですが、そこを思い出すだけで泣けてくる。

 ラピュタ阿佐ヶ谷のレイトショーは観られるかなぁ。もう一度観たいです。