『マイマイ新子と千年の魔法』2回目

 24日に『マイマイ新子と千年の魔法』のレイトショーに行ってきました。ラピュタ阿佐ヶ谷に50〜60人くらいの人が集まって、大変な熱気に包まれておりました。ちなみに最初に観に行ったワーナーマイカル武蔵村山では10人くらいしかいなかったので、とても変な気分でした。自分は20時30分ごろ会場に着いたのですが(ちなみに整理券は10時15分ごろ買いました)、その時間でも整理券を買いに来る人がいて、熱気が高まっているのに配給が追いついていない(それはスタッフの方たちも痛感されていると思いますが)現状。レイトショーなのに夜にいっても観られない、というその原因の一つでもあるのですが、私も。


 で、映画ですが、タツヨシが夜の歓楽街を走るシーンから館内は鼻をすする音が聞こえはじめ「この雰囲気に飲まれてはいけない」と思っていたのですが、「シング」が流れたところで涙腺が決壊。セリフもない、ただ風景とその中で過ごす新子たちの姿を見て涙が。そして駄目押しのように流れるコトリンゴの主題歌。ただ、音声にノイズが混じっていたように思えてそこは気がかりでした。

 2回観て思ったことをいくつか。まず「これは百合ではないよなぁ」と。私は百合作品には詳しくないので(林家志弦しか読んでない)百合好きの人から見れば「いや、百合だ」と言われるかもしれませんが、自分には違和感があります。それは、百合と言ってしまうと「新子と貴伊子」という関係性ばかりが前面に出てしまう印象を持ってしまうからかもしれません。たとえばウイスキーボンボンを食べた後、新子が「ここは何にもないように見えるけどそうではないんだよ」という内容のことを言ったときに、貴伊子が「新子ちゃんがいるから」と答えます。その答えを新子はやんわりと「そうじゃなくて」と否定します。まぁそこで肯定されても困るのですが、実際、新子と貴伊子の関係は一対一でもありますが、貴伊子は新子を介して一対複数の関係を作っていると思います。

 またタツヨシと別れ、金魚を見つけたあとの新子と貴伊子の会話。その中で印象に残ったのは新子の「ここにはなんでもあるよ。貴伊子のお母さんもタツヨシのお父さんも思い出せばきっといるよ」(うろ覚えですが)というセリフでした。そういうセリフも世界を閉じたものにしていないのかもしれないと思いました。

 あとタツヨシについて。今回観て思ったのはタツヨシは父のことを警察官としてしか見てなかったのだろうなぁ、ということでした。それが父の自殺→仇討ちの流れの中でそうではない父親の姿を認識させられることになるのですが、それがタツヨシの感情を解放させるのだから皮肉だなぁ、と。それまでのタツヨシは警察官の父を模倣していたのだなぁ。

 ここまで書いて思ったが、こういうテーマは「家族向き」なのか文科省

 今回観たあと、千年前にもこの場所で誰かが思いっきり泣いたり笑ったりしていたのかなぁ、と思うとそれこそが奇跡ではないかと思う自分がいるのでした。


 上映後の舞台挨拶ではウイスキーボンボンが配られました。瓶型のもので、フランスから輸入されたものですが、バレンタインくらいしか入荷しないので見つけるのに難儀したとの事です。ちなみに私はウォッカが入ってました。監督は車の運転があるからウーロン茶が入っているものを希望しましたが、それはないとの事でした。上映続行に向けてがんばっていくと仰っていましたし、期待したいです。