宇野常寛『ゼロ年代の想像力』

ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力

 90年代後半を「引きこもり/心理主義」の時代とし、9・11後の世界を「引きこもり/心理主義」の時代を踏まえた「サヴァイブ系/決断主義」とする。そして、それを踏まえたうえで「サヴァイブ系/決断主義」をどう克服するか、を考えた長文評論。で、前者を代表するのは『新世紀エヴァンゲリオン』で、その堕落系が『Kanon』『AIR』に代表されるエロゲーセカイ系作品。後者を代表するのは『DEATH NOTE』『Fate/stay night』など。

 連載のときに立ち読みしていたときは腹が立って仕方が無かったのですが、書籍になってから読むとそうでもなかった。むしろ吹き出してしまったところもあった。もっとも本人はギャグとして書いたわけではないのだろうけど。

 もっとも内容に疑問を無いわけではなくて、たとえば現在はポストモダン化が進行していて、そうすると島宇宙同士でお互いの正しさを証明する動員ゲーム=バトルロワイヤルが不可避になる、と書いてあるのだが、それは別にポストモダン云々と関係ない、昔からそういうことはあるのではないか、と思ったりするのだ。そんなことを思ったのは同時期に『花田清輝評論集』を読んでいて、それに収められている『座談会とサロン』の「サロンの伝統のないわが国では、座談会で勝敗を眼中におかず、虚心に意見を交換することなぞ、ほとんど不可能といって差支えない」という文章を読んだからなのだが、今の時代は座談会ですむような時代ではなくて自分の意見を通すためなら暴力だって辞さないのだ、と言われればそれはうなずけるのだけど、本質的には変わらないのではないか、という気がしないでもない。

 あと映画『どろろ』を取り上げて、物語のラストでどろろを「これから得られる新しい(擬似)家族」として捉えているけど、これがなんで擬似家族として捉えられているのか、映画を観ていないせいでもあるのだが、よく分からない。恋愛関係になるということはないのだろうか。で、恋愛関係になってしまうと散々批判している『AIR』やセカイ系作品とどこが違うのか分からないのだが、なんだかオタク批判をするためにそういう書き方をしたように思えてならない。

 まぁそんな事はどうでもよくて読んでいるうちに、取り上げている作品がマニアックではないか、という気がしてきた。よしながふみのどこがマニアックなんだ、と思われるかもしれないが、私の友人はマンガは週刊誌しか読まないのが多いし、私に『レッド』や須藤真澄を薦める友人も『よつばと!』は全く知らないのである。だから取り上げるのなら少ししか取り上げてない『銀魂』や『鋼の錬金術師』の方が良かったのではないか、と思った。で、「サブカルに興味が無いのは無自覚なキラ信者なんだから捨ておけい」とは見知らぬ誰かに手を差し伸べろ、と書いてある以上言えないはずなのだ(もっともそんな事は書いていないのだが、取り上げられている作品を見るともともと様々なジャンルのサブカルチャーに興味を持っている人を対象にしているとしか思えない)。これを読んで手を差し伸べたところにはサブカルと対比されるオタクでしかいないのでは(もしくはその逆)という感じがした。

 あと読むうちに最初に上に書いた仮説があって、それに合わせて作品を選んでいるように思えてきたのも事実。サブカルチャーで時代を批評するということが、そういう印象を与えてしまうのかもしれないと考えたが、そうするとサブカルチャー批評(というかサブカルチャーを使った社会学的批評)はどこまで時代を正確に反映しているのだろう。

 このように書いてきたが、そもそも、とある社会学者を「当時(1995年ごろ)から現代に至るまで、若者に最も影響力をもつ知識人であり続けているカリスマ社会学者」と書いてある時点で正確性とか客観性を問題にするのが間違っているのでは、という気もする。ちなみに帯で賞賛しているのはその「カリスマ社会学者」である。えーと、「彼をカリスマだとする小宇宙」と「そうは思わない小宇宙」で正しさを証明するバトルロワイヤルをするのがゼロ年代なんですね、実に分かりやすい。もっともこの例ではカルトとそれ以外の対決に見えるのだが。

 面白かったが自分とどこまで関係があるのかというとすごく微妙だなぁ、と思った。ツールとして使うには便利だと思ったけど、そういう感想にしかならないのは私が『エヴァ』に思い入れが無く、『DEATH NOTE』を読んでないからかもしれない。