やっぱり売れてるものが分からないとダメなんじゃないか

 『マイマイ新子と千年の魔法』という映画があるのです。私は非常に大好きな映画なのですが、まぁ、あまり知名度は高くないです。でもいい映画だから周りの友人に薦めたんですが、ほとんどの人は観てないのでした。ちなみに私の友人の大半は普段はアニメを見ないようなのばかりです。

 で、薦めてるときに「お前、こういうの好きそうだよなぁ」と言われたんですよ。そこで悟ったんですが、普通の人があまり読んだり見ないものの話ばかりすると、そういう人だからこういうのも好きなんだろうで話が終わってしまう!

 それは私の勧め方が悪いだけという話だけなのかもしれない。ただ普通の人が面白いといっているものも評価できないと、そうでないものも手にとってもらえないのではないかという考えができたのは確かです。

 ところで売れてるものに批判的な人ってネットを見てると結構います。例えばこういう意見とかありますが、まったくピンと来ないんですよね。しかも「まともに見てないでしょ」と言われると「これはテーマ性を語る作品でなく云々」と返すのを見ると、「うーん」と思ってしまうのです。というか、放送直後にエンディングを「醜悪」と言った人はいるわけで、みんながみんなあれに納得したわけではないのだけど。自分だってあのEDを受け入れていいのか分からなかったし。

 閑話休題。いや、こういう意見は同じ考えを持つ人なら同調できるのだろうけど、そうでない人にはまったく届かないと思うのです。しかも「『まどか』はエンタメで、商品としては優秀だけど、テーマ性を語る作品ではない」というのも首を傾げてしまう。エンタメはテーマ性を語らないのか?福田和也が『作家の値打ち』という本の中で純文学とエンターテインメント小説の違いについて

 エンターテインメントの作品は、読者に快適な刺激を与える。読者を気持ちよくさせ、スリルを与え、感動して涙させる。
 純文学の作品は、本質的に不愉快なものである。読者をいい気持ちにさせるのではなく、むしろ読者に自己否定・自己超克をうながす力を持っている。
 いわばエンターテインメントが健康的なビタミン剤であるとすれば、純文学は致命的な、しかしまたそれなしでは人生の緊張を得ることのできない毒薬である、と

と書いていて、そういう意味ならまだ納得はできなくもない。ただこの定義で考えると上にあげた人が評価してる『マイマイ新子と千年の魔法』や『フラクタル』が「自己否定・自己超克をうながす力を持っている」のかという話になってしまうのだが。なんだか人があまり褒めてないものを褒めることで「自分は他のやつとは違って見る目があるんだぞ」と言っているようにしか見えない。

 ただそういう考え方を持っているように見えてしまうというのはなんの役にも立たないと思うのです。だって「あんな売れてるのよりこっちの方がいい作品なんだから観ろよ」と言われて見る気になるかと言われたら、自分よりメジャーなものもマイナーなものも見ている友人が言っているならともかく、そうでない人からすれば「何だこいつ」としか見えないのではないか。そう思われたら推薦した作品だって興味を持ってもらえないだろう*1に、わざわざ自分で首を絞めてもらっているようにしか思えない。

 結局のところマイナーな作品をつぶす人はマイナー作品の(一部の)愛好者ではないか、と思うのです。そういう人たちが売れてるものを批判してマイナーなものを持ち上げることで、いつまでたってもマイナーなものがマイナーでしかないという事があるのではないか。

 こんな事を思うのはネットの言説もありますが、書店員になって「自分の好みのものをどう売っていくか」という事を考えざるを得なくなったからなんですけどね。今までジャンプは読まない、小説はほとんど読まない、音楽はヒット曲はほとんど聴かないという感じだったのでどうアピールすれば届くのか、考えないと薦めたいものが売れないんじゃないかと思うようになってきたのです。普通の人が面白いと思っているものが分からないというのは弱点ではないかと思うようになったのですが、「売れてる作品なんてダメだ」と言えばもてはやされる*2のがネットなんだよなぁ……。なんで?

*1:むしろ反感を買われる可能性が高い

*2:業界のことを真剣に考えていると言われたりするが、単に自分な好きなものが流行らないことに怒っているだけかもしれないとは思われないらしい