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想田和弘『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』

なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか (講談社現代新書)

なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか (講談社現代新書)

 『選挙』『精神』『Peace』というドキュメンタリー映画を撮った監督によるドキュメンタリー論。映画は全て未見。だから自分でもなんで手に取ったのかいまいち分からない。まぁ「ドキュメンタリーとかノンフィクションが好きだから」という事だろう。

 で、映画は観たことがないので実際どういうものか分からないのですが、「観察映画」というスタイルが面白かったです。「観察映画」とは台本を書かず、ナレーションと音楽を入れず、「目の前の現実を撮影と編集を通じてつぶさに観察し、その過程で得られた発見に基づいて映画を作るドキュメンタリー制作の方法論」と言っています。そうすることで受け手も映画の中で起きていることを主体的に観察し、感じ、解釈できるよう多義性を残す方法論でもあります。

 そういえば自分が見た数少ないドキュメンタリー映画では、『ボウリング・フォー・コロンバイン』はテロップやアニメなどが使われていた記憶がありますが、『A2』ではそういうのはなかったように思えます。あと前者は銃社会を批判していましたが、後者で地域住民とコミュニケーションをとるオウム信者を見て何がなんだか分からくなった印象があります。これ、マイケル・ムーア監督がオウムを撮ったらこうはならなかっただろうし、森達也監督が銃社会を撮ったらあのような作品にはならなかった、と今書いていて思います。で、本書の中で海外のドキュメンタリー作家は自分を「善」の側に置くが、日本のは「悪」の側に置く人が多いという指摘にはなるほど、と思いました。もっとも本書でも書いていますが、全てがそうとは限りませんけど。

 さて、これを読んで連想したのは平田オリザ『演劇入門』でした。

演劇入門 (講談社現代新書)

演劇入門 (講談社現代新書)

 なぜ連想したかというと平田氏の言う「現代演劇」と想田氏の「観察映画」がスタイルとしてすごく似ていると思ったからです。*1

 では「現代演劇」とはなにかというと以下の通り。

 「伝えたいことがある」近代芸術に対して、現代芸術、現代演劇のいちばんの特徴は、この「伝えたいこと」=テーマが、なくなってしまった点だと私は考えている。テーマがなくなったというのには、基本的に二つの側面がある。
(中略)
現代演劇においては、伝えるべきことなど何もないのだと言うと、よく、ではお前は何のために芸術表現をやっているのかとお叱りを受ける。私は、その際には、次のように答えるようにしている。
 「伝えたいことなど何もない。でも表現したいことは山ほどあるのだ」
 繰り返すが、伝えるべきものがないというのは、伝えるべき主義主張や思想や価値観は、もはや何もないということだ。だが、伝えたいことなど何もなくても、私の内側には、とめどなく溢れ出る表現の欲求が、たしかにある。
 その欲求は、世界とは何か、人間とは何か、という、私の内側にある混沌とした想いに、何らかの形を与えて外界に向けて示したいという衝動と言い換えてもいい。
 世界を描きたいのだ。
 (中略)
 すなわち私は、現代演劇の役割もまた、この、「私に見えている世界を、ありのままに記述すること」のみだと考えている。

 引用が長い。それは置くとしても、この伝えたいことを前面に出すのではなく*2、自分が持っている世界観を表現しようというのは、テーマを決めて撮影をしないという著者の考えと似ているなぁ、と思ったのです。青年団の舞台は3回くらい観ていますが、例えば野田秀樹の芝居を観ると、何を訴えているのか、何に問題意識を持っているのかが分かるのですが、平田オリザの芝居にはそういうのが感じられないのです。*3その分、人によって何を感じたかが違うのだと思います。感想を誰かと話したことがないので、実際にどうなのかは分かりませんが。

 そんなわけで演劇とドキュメンタリーという違うものが「どう表現するか」というところで共通しているのは面白かったです。


 

*1:ちなみに想田氏の次回作はその平田氏が主宰する青年団のドキュメンタリー

*2:そもそも伝えたいことがないのだから全面に出しようもないのだが

*3:どっちがいいとかではないです。念のため